関東7名城のひとつである忍城(おしじょう)は、室町時代にあたる文明年間はじめ頃、現在の行田市に築城されました。映画にもなった歴史小説『のぼうの城』の舞台としても知られています。
江戸時代の御三階櫓(ごさんかいやぐら)は、現在の水城公園付近に建てられていましたが、1873年(明治6年)忍城の解体に伴い破却されました。現在の忍城址(し)に再建された御三階櫓には郷土博物館が隣接し、博物館の渡り廊下から御三階櫓へ入ることができます。
歴史や足袋産業が学べる郷土博物館
郷土博物館の展示の中心は時代ごとではなく、テーマごとになっています。常設展示室では、2020(令和2)年に埼玉県初の特別史跡に指定された埼玉(さきたま)古墳群の関連資料や忍城の歴史、行田市を支えた足袋産業などの展示を見ることができます。
小田原城開城まで耐え抜いた唯一の城
戦国時代の終わりごろ、豊臣秀吉率いる連合軍が、小田原城を居城とする北条氏を討伐するために出陣。忍城の城主成田氏長(うじなが)も、北条氏への援軍として小田原城へ向かいました。城主不在となった忍城では、氏長に仕えていた成田泰季(やすすえ)を城代に、子の長親(ながちか)とともに留守を預かることとなりました。
城主不在の忍城を落とすべく、秀吉の家臣石田三成率いる軍が攻め入る計画を立てました。しかし、沼地に囲まれた忍城を落とすことは容易ではありません。
そのころ忍城では城代泰季が急死し、長親が指揮を執ることとなっていました。
三成は丸墓山古墳に本陣を設け、水攻めにしようと考えました。そのため、全長28kmほどの堤防「石田堤」を1週間前後で築いたと伝えられています。
小田原城が落とされたことにより忍城も開城しました。小田原城開城まで耐え抜いた唯一の城として、不落の名城「忍の浮き城」とよばれるようになったそうです。
行田を支えた足袋産業
行田の足袋産業は江戸時代が始まりといわれています。明治・大正時代にかけて機械化が進み、昭和時代には生産の最盛期を迎えました。「足袋の行田」と呼ばれるほどに足袋工場が立ち並び、名産品として広く知れ渡ったそうです。
街中には足袋を保管する足袋蔵が次々に建てられました。現在、足袋店はかなり減少してしまいましたが、伝統的な足袋作りは今も続いており、多くの足袋蔵が歴史的建築物として残っています。
足袋が一足できあがるまでには13の工程をそれぞれ専門の職人が受け持って、複数人によるリレー形式で完成させていくのだそうです。
かつては行田の街中を歩くと、ミシンの音が聞こえてきたのだとか。
展示室には足袋製造用のミシンや商標を印刷したラベルなどが展示されています。
御三階櫓の展望室からは行田の風景が一望
御三階櫓へは博物館内の通路から入ることができます。内部は「忍城と城下町」「近代・現代の行田」の展示室になっています。最上階の展望室からは関東平野とそれを囲む山々や風景を展望できます。
◆取材を終えて 忍城は関東7名城そして続日本100名城にも認定されています。館内入口には続日本100名城のスタンプを設置。また、忍城の御城印のほか「難攻不落」の御城印や、「落ちない御守」も販売しています。 浅見さんの説明は丁寧で、歴史の不得意な私にもとても分かりやすかったです。今回は食べられなかった行田名物「ゼリーフライ」を食べにまた行田を訪れたいです。 取材日:2022年8月23日 水越初菜