自分で何も決められなかった美術好きな少女が、昭和レトロと出合い、今、アート的な視点から街の活性化に取り組んでいます。彼女が目指すのは、昔あった大切なものを現代の生活に取り入れ、それを生涯かけて自ら実践し、作品化すること。自分らしい進むべき道を見つけようと、迷いながらも歩んできた日々を紹介します。(彩ニュース編集部)
・自分の個性は何? 迷いの日々
・初めて自分の意志で動く 人生の変わり目
・見つけた! 一生かけて取り組むこと
・〝生活とアートの一致〟を鳩山ニュータウンで実践
・「心の声」を意識して
・自分は何がしたいのか気づこう
・求め続けたからこそ見つけた自分らしい道
Profile 菅沼朋香 (すがぬま ともか)
職業:生活芸術家・アーティスト
1986年愛知県豊田市のニュータウンで生まれ育つ。2018年東京藝術大学大学院先端芸術表現専攻修了。2017年埼玉県鳩山町に移住。
1 今のこと
――どんな子ども時代でしたか?
菅沼 生まれ育ったのは愛知県豊田市のニュータウンで、ほとんどがトヨタ自動車株式会社や関連会社で働くサラリーマン家庭。私の家もそうでした。
子どものころから芸術に関することで目立ちたいという気持ちが強く、出る杭(くい)は打たれるみたいな子ども時代で、窮屈に感じていたところはありました。
――ニュータウンは、菅沼さんにとってはマイナスイメージ?
菅沼 嫌でしたね。親の職業がみな似ているから嫌だったのだと気づいたのは、高校生になってからでした。
高校は名古屋市内の美術科のある学校へ行きました。そこは均一なニュータウンとは違い、「ちょっと美術が得意」くらいでは個性的とはいえない世界。自分の個性は何なのか、何を表現したいのか自問するようになりました。
――自分自身と向き合わされたという感じですか?
菅沼 そうです。私、自分で決めることができなかった時代が結構長いんです。高校も、美術が得意だった私のために、母が見つけてくれた学校でした。
だから不安でした。自分で決められるようになりたいし、自立することにすごくあこがれるけど、実際には何一つできていない。でも今後美術の世界でどうしていくかは、さすがに自分で考えたい。
けれど「これだ!」と思える軸もなく、私立の名古屋芸術大学へ入学させてもらいました。
大学でも〝ぬるい〟状態のままで、引き続き迷いの中にいました。
卒業制作では現代アート作品に取り組みました。その作品が卒業制作展で評価され、思いがけず大学で3番目の賞をもらいました。その時初めて「自分のやりたいことをアート作品として表現できた」という感覚を持つことができました。
――10代からずっと「美術の世界で何者かになりたい」と思い続けていた菅沼さんが、「アートで表現できた」という実感を得たのは大きなことだったでしょうね。
菅沼 はい。ですが卒業したら就職するものと思っていたので、新卒で名古屋の広告代理店に入り、営業職に就きました。厳しい仕事でした。翌年リーマンショックが起こり、状況も一層厳しくなり、疲れ果てていました。
――そのころ昭和レトロに出合ったのですよね。
菅沼 名古屋には喫茶店がたくさんあります。営業の仕事の合間に、喫茶店でランチをとるようになり、それが昭和レトロに目覚めるきっかけとなりました。
時が止まったかのようにゆったりと時間が流れる空間、老若男女のとりとめのない世間話。普段の生活にはないものばかりが喫茶店にはありました。
そして何より素晴らしいのは内装でした。アールがかかった棚やカウンター、ベルベットのソファ、カラフルでポップなデザインの照明やゴージャスなシャンデリアなど、豊かな意匠(デザイン)に胸がときめきました。
それらの多くは昭和の高度経済成長期につくられたもの。今日より明日が良くなるとだれもが思っていた時代です。営業の3年間、喫茶店をめぐっては写真を撮るようになり、次第に高度経済成長期の文化に興味を持つようになりました。
菅沼 私は転職を決意しました。教授の助手の求人を探し、母校名古屋芸大の教授に「助手になりたい」と直接〝営業〟しました。このときが私にとって人生で一番の変わり目だったと思います。そして3年契約で助手となりました。
――初めて、ご自身の意志で前へ進もうとされたんですね!
菅沼 そうなんです。美大の助手は、学生と一緒に展覧会に出品するなどチャンスをもらいやすく、作品を作る刺激もありました。
助手の出勤は週3日。時間に余裕ができたので、レトロな雰囲気にあこがれていた「ゆめじ」という店でアルバイトも始めました。
そこでさらに昭和レトロの良さにひかれていきました。それは「世代を超えたコミュニケーション」です。それまでの私の生活にはなかったものです。たとえば現代のカフェでほかのお客さんと話すことはありませんが、昭和レトロな喫茶店だったら、ほかのお客さんとマスターを通じて話したりするんですよね。
菅沼 助手最後の2013年に作家としての大きなチャンスが二つ巡ってきました。
一つは愛知県のコンペ。応募して選ばれ、そのとき作ったのが『まぼろし屋台』という作品です。
もう一つは「あいちトリエンナーレ」。幸運にも出させてもらえ、ここでは『まぼろし喫茶』を作りました。
この二つの作品で表現しているのは「高度経済成長期のころの日本に自分はあこがれている。今は忘れられているが、そのころにはあった良いところを現代に取り入れていきたい」ということです。高度経済成長期は、現代の生活に欠かせない大量生産による豊かさと、日本古来の風土に合った文化が共存していた時代だったと考えています。
二つの作品を発表して、「もっとアーティストとして生きていきたい」と強く思いました。
そこで東京藝術大学大学院の先端芸術表現専攻を目指しました。
大学院での研究を通して、高度経済成長期のころまであった大切なもの――「日本の風土に合った生活」や「人と人とのつながり」――を、もっと現代を良くしていくために取り入れ、それを生涯かけて続け、作品化していこうと決めました。
――ご自身が実践して、それを作品として表現するということですか!?
菅沼 そうです。大学院の修了作品としてまとめたのがシリーズ作品『ニューロマン』。私の〝生涯をかけたノンフィクションドラマ〟です。
修了作品展では、生まれてから東京(大学院)までをまとめた映像ドラマ『ニューロマン第1章・都会編』を発表し、都会編に続く未来のポスター2点を掲示しました。
それをご覧になった建築家の藤村龍至さんが、「鳩山ニュータウンに来ないか。そこで作品を作った方がアーティストとしていいと思う」と熱心に声をかけてくださいました。藤村さんは埼玉を中心としたニュータウンの高齢化問題の研究に取り組んでいる方です。
私はニュータウンが好きではなかったのですが、「高度経済成長期をテーマにするくらいあこがれているのに、なぜニュータウンがこんなに嫌なのだろう。改めて、自身のルーツであり、高度経済成長期の産物でもあるニュータウンと深く向き合い、作品化してみよう」と思い立ち、2017年鳩山に移住しました。
菅沼 鳩山ニュータウンは東京のベッドタウンとして開発され、現在は高齢化が進んでいます。
私は、ベッドタウンの役目を終えたニュータウンが、にぎわいのある、自立した街になるために、街の中で面白い事業を行う人を増やすことを目指そうと思いました。
そのためには、人と人が出会う場所があったらよいと思い、空き家のリビングリームを改装しました。それがここ『ニュー喫茶・幻』(以下「幻」)です。
幻を拠点に、人と人が出会い、ここで商売をする人が出てきたり、私自身も自分で仕事を生み出せる人間になるということに今、挑戦中です。
そうした挑戦の数々を『ニューロマン第2章・ニュータウン編』として作品にまとめようと思っています。4年たってようやく、そのめどが立ってきました。
菅沼 そうです。たとえば、幻で出会った人たちが新しいことを始めています。町のコミュニティマルシェでランチ提供を始めた人や、地域のカントリーバンドに入ってイベントで演奏するようになった人、隣町でキッチンカーをつくるプロジェクトに関わるようになった人などがいて、今、さまざまな動きが広がっています。
幻の常連さんで、興味をもってくれて、ニュータウンに出店を考えているオーナーもいます。
私自身もいろいろなプロジェクトに挑戦しています。たとえばニュータウンの庭の果実を使った「空家スイーツ」を構想し、実際に販売も始まりました。ほかにもやりたいプロジェクトがあり、それらすべてが終わって作品『ニュータウン編』になります。
2 あなたらしくあるために大切なこと
「心の声」を意識して
――自分らしく生きていく、働いていくために何を大切にしたらいいと思いますか。
菅沼 ときがわ町の「比企起業塾」でビジネスの仕組みを学んで、そんなに大ごとに考えなくても、小さいビジネスを始めて、少しずつ大きくしたり長く続けたりというのは結構シンプルなんだなと思いました。給料は我慢料ではない。ストレスを減らして、仕事をやっていけるようになったら良いと思いますね。
自分らしく生きるためには「心の声」を意識すると良いのではないでしょうか。頭で考えたことではなく、心でやりたいと思ったことを優先する。でもなかなか難しいですよね。
3 未来を生きる子どもたちへ
――これからの子どもたちへ、生き抜く力を与えるメッセージをお願いします。
菅沼 自分自身にも言えることですけど、自分が何をしたいのかということに早く気づいた方がいいですよね。今は情報が格段に手に入りやすくなっていますし、生き方も多様になっているので、気づいたら、より深く取り組めば、好きなことで加速度的に成長できると思います。
取材を終えて
求め続けたからこそ見つけた自分らしい道
「最近、昭和レトロにひかれる人が増えています。アート的な視点で、そうした人と人を結びつけ、街を活性化していくという菅沼さんのアプローチはとても斬新です」と言うと、菅沼さんはこう返しました。
「アーティストが何カ月間かその街に滞在して、地域の人々と交流しながら作品を制作するというやり方は、地域活性化のひとつとして最近よく見られます。私はそのスパンが長く、4年間取り組んでいます。そのやり方でいいと思っています。街に滞在し、地元の人の話を聞きながらコミュニティとアートをどう結び付けていくか、一生をかけて考えていきたい」
自分の軸が分からず、自分で決められなかった菅沼さんが、きっぱりと「自分はそのやり方でいい」と言い切る。迷いながらも求め続けたからこそ、自分らしい道を見つけられたのだと思います。
取材日:2021年3月2日
綿貫和美