ウイスキー「イチローズモルト」を生み出し、今や世界的にも高い評価を受けている秩父蒸溜所(株式会社ベンチャーウイスキー。肥土伊知郎社長)。その「グローバルブランドアンバサダー」を務める吉川由美さんは、2019年に「世界のウイスキー業界に著しい貢献を果たした人物」としてワールドウイスキー・ブランド・アンバサダー・オブ・ザ・イヤーに輝いています。しかし華々しい活躍をとげるまでには、だれもがぶつかるような後悔に悩む日々もありました。今回は特大版で、吉川さんのこれまでをたどります。(彩ニュース編集部)
Profile 吉川由美(よしかわ ゆみ)
職業:グローバルブランドアンバサダー
1981年栃木県生まれ。帝国ホテルにてバーテンダーとして勤務した後、2008年にニューヨーク、2011年にスコットランドへ渡る。スペイサイドのウイスキーBar「ハイランダーイン」でバーテンダーとして従事し、その間アイラ島のブリックラディ蒸溜所にてウイスキー造りに携わる。日本帰国後、現在は(株)ベンチャーウイスキーにてブランドアンバサダーとして勤務。2019年、ウイスキーマガジン社主催のアイコンズ・オブ・ウイスキーにて、ワールドウイスキー・ブランド・アンバザダー・オブ・ザ・イヤーを受賞。また、同年7月に(株)ハイランダーイン・ジャパンを設立し、代表を務める。
・カクテル作りへの興味からバーのおもしろさを知る
・帝国ホテルのバーテンダーをめざす
・ウイスキーのおもしろさに目覚める
・本場スコットランドで知見を深める
・秩父蒸溜所に出合い、ほれ込む
・ニューヨークで後悔の繰り返し
・「自分が選んだことを正解にする人生に」
・ウイスキー業界を知りたい。スコットランドへ単身移住
・日本のウイスキーを発信する仕事につく
・「秩父といえばウイスキー」世界の愛好家の常識に
・やりたいことがあったら受信のアンテナを立てる
・見方を変えればチャンスにつながる
・人のあたたかさがこの業界で働く原動力
1 今の仕事のこと
カクテル作りへの興味からバーのおもしろさを知る
――20代でバーテンダーになられますが、いつからなりたかったのですか?
吉川 中学高校生のころは、バーテンダーは頭にもありませんでした。
専門学校生のとき、バーをやっている友人の話を聞いてカクテル作りに興味がわき、アルバイトでバーテンダーをやってみようと思いました。でもすべて断られました。
そんな折、友人のお兄さんが神奈川県でバーを始め、週1回アルバイトをさせてもらうようになりました。そこでバーテンダーのおもしろさを知りました。
――バーテンダーのおもしろさとは?
吉川 バーでは学生、社長、すし職人、ステンドグラス作家などさまざまな職業の人たちがカウンターに集まってきて、知らない人同士3人4人でワイワイやっています。そこには職業や年齢の違いなど関係なく、なんとなく輪が広がっていく雰囲気がお酒を介してありました。そのお手伝いができるバーテンダーってすてきだなと思いました。
帝国ホテルのバーテンダーをめざす
――そして帝国ホテルのバーテンダーをめざすのですね?
吉川 お客さんの一人が帝国ホテルのバーのファンで「あそこは一流だよ」とよく話していたんです。
社会人として会社に入って仕事を経験するなら帝国ホテルだと思い、人事部に電話をかけてみると「アルバイトなら登用しています」ということでした。
当時女性のバーテンダーは珍しく、面接では「アルバイトの人も女性もバーテンダーにはなれない」と言われましたが、入れば何とかなるかなと思い、帝国ホテルでアルバイトを始めました。
最初会計課に配属されました。周りより出遅れているので実績を残すしかないと思いました。
会計課で働きながら朝6時にバーにいくと、バーテンダーたちは早く起きてグラスを拭いたりしています。早朝にバーテンダーの仕事を教えてもらえれば、業務時間外で勉強になると思いました。
――教えてもらえましたか?
吉川 毎朝早く行ってお手伝いをしているうちに、「シェーカー振ってみる?」と声をかけてくれるようになりました。
新しいカクテルを考えて社内外のコンペティション(以下「コンペ」)に書類を送るうちに、地区予選に進めるようになり、それを1年間くらい続けていると、会社から「社員試験を受けてみる?」と言われました。「ぜひ」とお願いして受けさせてもらったんです。
――そして社員への扉があいたんですね。
吉川 はい。ですがバーテンダーにはなかなか配属されず、願いがかなったのは24歳のときでした。
ウイスキーのおもしろさに目覚める
吉川 当時はワインブームでしたが、帝国ホテルは比較的ウイスキーの取り扱い量が多く、見たことのないウイスキーが並んでいました。
ウイスキーに明るい人は多くはありませんでしたが、好きな人はすごく好きで掘り下げていました。ニッチな世界という感じがして、興味がウイスキーの方へ向かっていきました。
調べてみると、樽(たる)の状態で熟成が変わるとか、国によって製法が法律で決まっているとか分かってきました。でも本をいくら読んでも現地の様子は分からないので、「ウイスキーの本場スコットランドに行って自分の目で見てみよう」と思いました。
ウイスキーの本場スコットランドで知見を深める
吉川 2005年、スコットランドに初めて行きました。
母も一緒に行くと言い出し、母と二人で約2週間回りました。とはいえお城に行くわけでもなく、毎日蒸溜所見学の繰り返しです。母は楽しかったのかなあ?と今でも思っています。
母には旅行前に国際免許をとってもらいました。母が運転してくれるので、私は試飲できました。
当時はインターネットも普及していなかったので、書店で買った地図を見ながら移動し、宿は午後3時4時になったら直接ホテルに行って部屋が空いていないか聞く、そんなハラハラした毎日でした。
――帝国ホテルでの経験があったうえで現地を見てどうでしたか?
吉川 夜、勇気を出してバーに行ってみたのですが、日本にしかないことってこんなにあるのかなと思いました。
たとえばバーの細かい作業です。デコレーションの手の入れようは、日本に勝てる国はなかなかないと思います。日本のバーテンダーは職人の世界で、接客も細かいところを見ています。
海外はおおざっぱでフレンドリーです。バーで飲んでいる人に「どこのウイスキーが好きですか?」と聞くと、「おれんちの近くだよ」と言われました。地元愛が日本人より強いですね。
文化的な違いがバーという空間にすごく現れるなと感じました。その違いをもう少し掘り下げたくて翌年にも再度、母とスコットランドへ。蒸溜所を回るうちに「将来ウイスキーに特化した仕事ができたらおもしろいな」と思うようになりました。
秩父蒸溜所に出合い、ほれ込む
吉川 そのころ「秩父でイチローさんっていう人がウイスキー造るらしいよ。今度その蒸溜所を見に行くけど一緒に行く?」と声をかけてくれた人がいて、2008年1月に初めて秩父蒸溜所の見学に来ました。すごくいい蒸溜所だなと思いました。
――どういうところがいいと思ったんですか?
吉川 これから何か始めるという、前向きな活気がありました。でも一番はイチローさんの人柄です。
イチローさんは会社の社長というよりは、ウイスキー好きなおじさんという感じで、見学者の私たちと同じ愛好家目線で、ウイスキーのことや夢を本当に楽しそうに話してくれました。裏表がなくて、すっきりと前を向いて、ウイスキー造りが好きなんだなというのが伝わってきました。
いつか自分がウイスキーの仕事に就くようなことがあったら、この蒸溜所が最高だな、ここはきっとスコットランドのウイスキーと肩を並べるようになると思いました。
――それを見抜いているってすごくないですか? 秩父蒸溜所が創設されたばかりのころですよね。本場の蒸溜所の数々を見学して見る目が肥えていたのでしょうね。
吉川 いろいろな蒸溜所を回ってみて、働く人たちの人柄が素直にウイスキーに出てくると感じていました。イチローさんみたいな人柄の人が造るここのウイスキーは、素直なおいしいウイスキーになるのは間違いないと思います。
ニューヨークで後悔の繰り返し
――そのあとニューヨークに移住しますね。
吉川 2007年8月に結婚し、1週間後に相手の海外転勤が決まって数週間後にはニューヨークに赴任していきました。
私も一緒にニューヨークへ行くという選択肢もあり、帝国ホテルを続けるかすごく悩みました。前年の2006年にキリン主催のカクテルコンペで優勝できて、これからというときでもありました。
辞めたら将来後悔するかもしれない、これから大丈夫かな、と半年間悩みました。
でも昔から、日本との違いを知れば知るほど、また新しい世界が見えてきたりするので、海外へ生活の拠点を移して、腰をすえて文化を見る機会は、これを逃したらもうないんじゃないかなと思いました。
20代の真ん中で外へ出てみるのもステップアップにつながるのではと、思い切ってニューヨーク行きを決めたんです。
――大きな分かれ道でしたね。
吉川 2008年の7月からニューヨークで生活を始めましたが、最初の1年間は後悔の繰り返しで眠れないくらい悩んだりしました。
――えっ! 本当ですか?
吉川 一番大きかったのは、ニューヨークでは何もない一人の人間になってしまったことです。仕事もなく、名前で呼ばれることもなくなり、私って何なんだろうともんもんとしていました。
「自分が選んだことを正解にする人生に」この言葉の意味が分かった
吉川 後ろばかり見ていたのかもしれません。
帝国ホテルを辞めるか悩んでいたとき、行きつけのバーのバーテンダーからこういわれました。
「自分が選んだことを正解にする覚悟がないとね。選んだことが正解か不正解かはその人次第だから。帝国ホテルをやめるって大きな決断だけど、選んだことを正解にする人生にしなさい」
そのときは腑(ふ)に落ちていませんでしたが、ニューヨークで悩むうちに、なるほど!と思いました。
やめたことを後悔するときはあるかもしれないけど、やめたことを正解にするかどうかは自分の行動次第。選んだことを正解にするのが大事だと気づいたんです。
選択肢って人生にたくさんあって、どっちにしようか悩むことの連続だと思います。でも大切なのは「選んだことが正解かどうか」ではなくて、「選んだことを正解にできるような責任と覚悟があるのかどうか」なんですよね。
――吉川さんにそういう時期があったなんてビックリです。
吉川 ニューヨークで自分にできることをしよう、まずは英語を身につけようと英語学校へ通いました。
自分の世界も作っていかないと、また気持ちにつぶされてしまいます。以前やっていたバスケットボールを再開しました。
それから小さなチャレンジですが、大きな心の変化になったのがアメリカのドライビングライセンス(運転免許証)の取得です。
やはり外国人というので必要書類がそろわず、窓口で門前払いされたりしましたが、何回も行って英語で説明して書類を出してもらい、やっと1年くらいかかってとれたんです。
私の人生の中でも一番粘り強く頑張ったのはそれかもしれません。
不可能と思っていたこともできるんだと、少しずつ前向きになれたと思います。
ウイスキー業界を知りたい。スコットランドへ単身移住
吉川 2年ちょっとニューヨークで暮らし、帰国。ウイスキー業界の仕事が心にあったので、ワーキングホリデーを利用して2011年5月から2年間、スコットランドへ単身移住しました。
――すぐに仕事は見つかりましたか?
吉川 お酒関連の業界に絞って就職活動をしました。世界中のウイスキー愛好家がその名を知っている「ハイランダーイン」という店があり、そこには必ず履歴書を持っていこうと思っていました。結局20社近く受けて全部落とされました。
ここを断られたらもうない、とアイラ島の蒸溜所で「何とかお願いします」と頼み込み、「数カ月だったら働いてもいいよ」と言われました。
――やっと突破ですね!
吉川 やった!と思ったら、同じ日にハイランダーインのオーナーから、「今日、一人あいたから、今だったらスタッフとして雇えるよ」と電話をいただきました。どちらもあこがれの蒸溜所とバーでどっちも働きたくて、正直に両方に相談しました。
すると蒸溜所が忙しい冬は蒸溜所で、バーが忙しい夏はバーで働けばいいという話になり、晴れて両方で働けるようになりました。
機は熟した。日本のウイスキーを発信する仕事につく
――スコットランドでの2年間が終わってからどうしたのですか?
吉川 日本に帰ったらウイスキーの仕事以外ないと思っていたので、前もって秩父蒸溜所に「そちらで働かせてもらえませんか」と、自分が今までやってきたことや、これからやってみたいことを書いて手紙とメールを送りました。
――どんなことをやってみたいと書いたのですか?
吉川 スコットランドで日本のウイスキーを改めて飲んだとき、「日本はこんなにおいしいウイスキーを造っているのに知らなかった」と思いました。周りの人たちも同様でした。
「日本に帰ったら、秩父蒸溜所のウイスキーを国内外に向けて伝える仕事が今の私にはできると思います。日本のウイスキーを知らない人たちにちゃんと伝えていきたい」という思いをつづりました。
面接を受け、「今、会社に吉川さんみたいな人がいたらいいと思うから、良かったら働いてみますか?」ということになりました。
――新たな挑戦ですね。どうやって日本のウイスキーを国内外に発信していったのですか?
吉川 一番の近道は足を運ぶことだと思います。現地に行って自分の言葉で伝えると、生産者の顔が見えて「今度飲んでみようかな」と思ってくれる。そうやってファンや応援者を増やしていくのです。
――ブランドアンバサダーというと、華々しいイメージがありますが……。
吉川 イベントに顔を出すこともありますが、仕事の8割は商品についてのご質問にお答えするなど相手との関係をコツコツ作っていくものです。
お客さんに対して少しでも手を抜くと、すぐ伝わってしまいます。ウイスキーづくりも、ご案内も返信も回答も、丁寧に神経を集中してやることが大事だと意識しています。
――そうした努力の積み重ねで2019年、ウイスキーの国際コンテスト「ワールド・ウイスキー・アワード」で、ブランドアンバサダーとして世界的に表彰されたのですね。
吉川 「ワールドウイスキー・ブランド・アンバサダー・オブ・ザ・イヤー」という、ウイスキーのブランドアンバサダーの中で1年間貢献した人を決めるというものに選ばれました。
私は海外に出てセミナーを開く機会は多くないのですが、その分、外からの受け入れを積極的におこなっています。海外の方をご案内するときは、日本の家みたいに感じてもらえるよう努めます。そういうことが評価されたのかなと思います。
「秩父といえばウイスキー」世界の愛好家の常識に
――秩父がウイスキー愛好家たちの間では特別な地域になっているのではないですか?
吉川 なっていますね。「秩父といえばウイスキー」というのが、世界中の愛好家の中ではイコールでつながるようになったかなと思います。
近い将来の目標として考えているのが、この地域をウイスキーの町として成熟していくようなお手伝いをすることです。
秩父に来ると蒸溜所があって、みんなウイスキーの基本的なことをなんとなく知っていて、ウイスキーって自分たちの文化だよねと思ってくれる町ができたら、世界で唯一になるのではと思っています。
海外を見てきて「お酒づくり=文化」だと思うので、この町の産業というだけでなく、文化にしていけたらと思います。
――秩父が、より魅力的な町に思えてきました。期待しています。
2 あなたらしくあるために大切なこと
やりたいことがあったら発信ではなく受信のアンテナを立てる
――自分らしく働くために何を重視したら良いとお考えですか?
吉川 受信のアンテナをできるだけ多く立てることじゃないかなと思います。
私たちはやりたいことがあると、その実現のために発信しがちですが、その逆で、周りの人はどういう価値観を持っているのかな、どんなことをやりたいのかなと受信していくと、この人って自分のやりたいことの仲間にできちゃうかなとか見えてきます。案外それがやりたいことを実現するための近道になったりします。
3 未来を生きる子どもたちへ
見方を変えればチャンスにつながる
――次の世代の子どもたちに生き抜く力を伝えるメッセージをお願いします。
吉川 私は最初、女性はバーテンダーになれないと言われました。また、海外では日本人ということでアジア人差別を受けました。
でも見方を変えてみると、たとえば私がイギリス人で男性だったら多くのバーテンダーの中に埋もれてしまうと思います。
日本人であり女性であるということはウイスキー業界でも珍しい。いるだけで目立ちます。ということは発信したときに声が届きやすい。そう考えると、世界で働いていくうえでは有利かなとも思います。
見方を変えるだけでそれがチャンスになったりもするのです。
人間も環境も国も価値観も見え方も一つだけではありません。いろいろな方向から物事を見ることができる広い心と、自分とは違う価値観に対する広い間口を持っていれば、そんなに将来に対して恐れる必要はないかなと思います。
取材を終えて
人のあたたかさがこの業界で働く原動力
日本の良さを伝え、グローバルに活躍する吉川さん。芯のしっかりした女性ながら、発する言葉は思いやりに満ちています。「一番うれしかったことは何ですか?」と聞くと、秩父蒸溜所の仕事で、以前働いていたスコットランドのハイランダーインに行ったときのことを話してくださいました。
「地元の人が集まってくれて、『お帰り』って歓迎会を開いてくれたんです。家みたいな場所が日本以外にもあるのがうれしかったし、ちゃんと仕事しているのをお見せできたのも本当にうれしかったんです。そういうことが、この業界でこれからも働きたいと思う原動力になっています」
“人のあたたかさ”に癒やされ、励まされる。それは国が違っても変わらないのだと改めて感じました。
取材日:2021年12月19日
綿貫和美