人々に豊かな暮らしを提案したくて、ハウスメーカーに勤めながら古民家や昔の暮らしを学ぶ中、日本の林業の実情を知った中市里美さん。35歳で転職し、自分なりのやり方で日本の森と暮らしを守ろうとしています。ふんわりした雰囲気ながら、周りの人たちを自然に巻き込んでいく情熱をあわせ持つ中市さんを紹介します。(彩ニュース編集部)
・人々のぬくもりの中、子ども時代を過ごす
・空間デザインへの第一歩
・30代になって転機が訪れる
・それでもやっぱり、林業に関わる仕事がしたい
・群馬県高山村でコミュニティデザインに携わる
・高山村の仕事が小川町との縁を深めさせた
・東京と小川町。2拠点生活が始まる
・自分が本当にやりたいことなら力を発揮できるはず
・やれないことなんてない。逆風にどう立ち向かうかだけだ
・小川まちやどを軸に、町の内外の人と連携
Profile 中市里美(なかいち さとみ)
北海道函館市生まれ、神奈川県藤沢市育ち。大手ハウスメーカーでインテリアコーディネーターとして10年以上勤務したのち、株式会社Tree to Greenに転職。現在は、日本の木を内装・遊具・家具に使った空間づくりや木育活動を通して、日本の森林問題の解決を目標に、デザイナーとして子ども施設などの空間デザイン、製作管理業務をしている。群馬県高山村の地域活性化起業人として、公共施設の空間デザインや住民と施設利用を考えるコミュニティデザインなどの業務も担当。
もう一つの顔としてNPO日本民家再生協会の理事もつとめる。その縁で小川町にも関わるようになり、2020年夏から都内の住居と、小川町にある築120年以上の古民家で2拠点生活を始める。現在は小川町1拠点にしぼり、都内のオフィスと高山村とを行き来する日々。2022年6月、共同代表の高橋かのと一緒に「株式会社わきま」を設立し、「小川まちやど」3宿の運営や、イベントの企画運営もしている。
北海道函館市生まれ、神奈川県藤沢市育ち。大手ハウスメーカーでインテリアコーディネーターとして10年以上勤務したのち、株式会社Tree to Greenに転職。現在は、日本の木を内装・遊具・家具に使った空間づくりや木育活動を通して、日本の森林問題の解決を目標に、デザイナーとして子ども施設などの空間デザイン、製作管理業務をしている。群馬県高山村の地域活性化起業人として、公共施設の空間デザインや住民と施設利用を考えるコミュニティデザインなどの業務も担当。
もう一つの顔としてNPO日本民家再生協会の理事もつとめる。その縁で小川町にも関わるようになり、2020年夏から都内の住居と、小川町にある築120年以上の古民家で2拠点生活を始める。現在は小川町1拠点にしぼり、都内のオフィスと高山村とを行き来する日々。2022年6月、共同代表の高橋かのと一緒に「株式会社わきま」を設立し、「小川まちやど」3宿の運営や、イベントの企画運営もしている。
1 今の仕事のこと
人々のぬくもりの中、子ども時代を過ごす
――どんなところで育ったのですか?
中市 父の都合で5歳から神奈川県の海沿いの町・辻堂(つじどう)で育ちました。
振り返ると、私の原点は辻堂での暮らしにあります。辻堂は海もあって自然豊かで、人のぬくもりのある町だったんですね。両親は働いていたのですが、学校から帰ると、近所の人が「お帰り」って声をかけてくれたり、駄菓子屋さんに行くとおばちゃんがおまけしてくれたり、そういう“暮らし”のある中で幼少期を過ごしました。
――どんな子どもだったのですか?
中市 家具や建物が好きで、二段ベッドの自分の空間にカーテンを付けて、かわいくしたりして楽しんでいました。
小学生の途中から一人の部屋をもらったんですね。それがうれしくて、しょっちゅう模様替えをしていました。大工仕事が得意な父に棚を作ってもらったり、自分でクッションをまとめてソファをつくったり、今思うと、心地よい空間を作るのが好きだったんだと思います。
中学生のときインテリアコーディネーターという職業を知り、目指すようになりました。
空間デザインへの第一歩
中市 高校卒業後、日本で初めてのインテリアデザイン専門校「ICSカレッジオブアーツ」(東京都目黒区)に入学しました。先生は全員、建築家や色彩デザイナーなど現役の方々で、専門知識を学ぶだけでなく、先生とディスカッションしたり、課題に沿った空間づくりをしたり、実地的な学校でしたね。
――まさに第一線の方々の空気感も感じることができたんですね。
中市 そうなんです。
インテリアは建築の一つなので、どちらかというとインテリアより建築を学ぶ学校でした。今の私の多様性はそのおかげかもしれないと思っています。
――どんな多様性ですか?
中市 たとえばインテリアを学ぶだけだったら、カーテン、照明、ラグは何にしようと考えるだけだったと思いますが、建築を学んだおかげで、インテリアだけでなく、この壁を取り払って間取りを変えようとか、ここに扉を付けたら空間が区切られて使いやすいんじゃないかとか、建物の構造を踏まえて間取りまで考えることができるようになりました。
――専門校卒業後はどうしたのですか?
中市 新卒の20歳から10年以上、ハウスメーカーでインテリアコーディネーターをしていました。良かったなと思うのは、家を建てるところから全部関わらせてもらえたことです。間取りを決め、窓はどの位置にするかといったことまで幅広く関わり、インテリアコーディネートを数えきれないほどやりました。
でも、とても速いサイクルで家をつくっていくので、その中でいかに暮らしを豊かにするか提案していくのは、ある意味過酷でした。人の家を建てることって精神的にすごく負荷がかかるんですよね。
――多くの人にとっては一生に一度のことですものね。
中市 そうなんです。その責任を背負うので、ずっと続けるのはしんどいなと思っていました。
30代になって転機が訪れる
中市 20代は夢中で仕事をしていたんですけど、30代になると現場をはずれて、人を育てる方に回っていくんですね。それって本当にやりたいことなのかな、と悩んでいる私に同僚が、NPO法人日本民家再生協会(東京都千代田区)の「民家の学校」を教えてくれました。
それは大人の学びの学校みたいなもので、月1回、1年間学びます。ちなみに協会のいう「民家」とは、一般に100年150年たっているような「古民家」を指しています。
――古民家での暮らしにあこがれがあったのですか?
中市 正直なところ、古民家で暮らしたいとは思っていなくて、ただ、学んでみたかったんです。暮らしを提案する側として、豊かな暮らしとは何か、昔の暮らしから見えてくるかもしれないと思いましたし、建築の伝統工法にも興味があったので受講することにしました。
その学校で林業の講座を受けたことが、私にとって大きな転機となりました。
講座では、実際の林業地に行って伐採を体験し、山主や製材業者から「継ぎ手がいない」「材木を買ってくれる人がいない」という現状を聞きました。
何より衝撃的だったのは、「林業があってこそ、山が豊かだからこそ、人の暮らしが成り立つんだ」ということでした。
――山が豊かというのは、人の手が入って間伐、整備されているという意味ですか?
中市 そうです。
初めて日本の林業の実態を知りました。ずっと住宅に関わっていたけど、気づくと日本の木を使ったことはほとんどなくて、海外の木ばかりだったんです。このままでいいのかなと、モヤっとした感じだけが残りました。
それでもやっぱり、林業に関わる仕事がしたい
中市 民家の学校で1年間学んで、林業のことや、日本の昔の暮らしに何かヒントを得たような気はするけれど、自分の中ではまったく解決できていなくて、そんなときに、次年度の運営スタッフをやってみないかと声をかけられたんです。
民家の学校は、受講生が次の年にボランティアスタッフになって続いている学校です。
運営スタッフは講座の内容を決めることができます。私は、モヤモヤが解消できるかもしれないと思ってお受けしました。
――どんな講座を組んだのですか?
中市 山主、日本の木を活用している建築家、民家を再生する人、そこに暮らしている人のリアルな話を聞く講座です。古民家の再生にかかる費用など実際のことを知りたかったんですね。
林業に関わる人全員が、「このままでは林業は持続できない」と話していました。今は国の補助金を使って整備することでしか林業が回らなくて、木材を出して利益を得ることが全くできていないということでした。日本の森を守らないと暮らしが成り立たないのに、この先は絶望的じゃないかと思いました。
こうして運営スタッフとして1年間かかわる中で、「それでもやっぱり私は林業に関わる仕事がしたい」と確信をもちました。
林業家(山主、製材業者など)という形ではなく、どうしたら私なりに林業に関われるんだろうと模索し、転職先を探していました。35歳のときです。
どこに転職するかはぜんぜん答えが決まらなくて、ずっとモヤモヤしていました。そんなとき学校の仲間から、東京おもちゃ美術館(東京都四谷)の「木育ラボ~赤ちゃんからはじめる木のある暮らし」を紹介されたんですね。子どもたちに、日本の木を使ったものづくりを楽しんでもらいながら、地域や自然を思いやる心を育てていました。
衝撃でした。林業に直接かかわらなくても、木の良さを伝え、「木育」という活動はできるのだと気づきました。
さっそく木育を手掛ける会社を探し、見つけたのが株式会社Tree to Green(東京都渋谷区)です。日本の木を使ったものづくりから、よりよい環境や文化をつくろうとしているベンチャー企業で、高い目標を持ち、木育活動や空間内装デザインなどをしていました。絶対この会社に入りたいと思い、すぐその場で応募しました。私の熱意が伝わったのか、採用いただきました。
――私たちは疑問がわいてきても、「まぁいいか」と流してしまいがちですが、中市さんはモヤモヤした思いから目をそらさず、ずっと模索し続けてきたから、自分の進むべき道を見つけられたんですね。
中市 20代は仕事もプライベートも時間が足りないぐらい忙しくて、だからモヤっとしても流していたと思うんですよ。
でも30歳になったとき、「このままでいいのかな?」とちょっと立ち止まったんです。そこから突きつめるようになったと思います。
コロナ禍の中、群馬県高山村でコミュニティデザインに携わる
――今の仕事の内容は?
中市 主な仕事は内装や空間のデザインです。木育の推進もしていて、子どもに向けて木の良さを伝える企画を考えて運営しています。
さらに「コミュニティデザイン」にも取り組むようになり、2020年から地域活性化起業人(地域おこし企業人)として群馬県高山村に派遣されました。
――コミュニティデザインとは何ですか?
中市 新しい公共施設の建築や町おこしの際に、関係者の「こうありたい」という思いを引き出し、人と人とがつながる仕組みをつくり、課題解決の道筋をつくっていく方法です。
高山村では「今までにはないような施設を作りたい」という住民の思いから、どうしたらそこに人が集まるようになるか、どういう仕組みがあったら活性化するかを一緒に考え、住民を巻き込んでコミュニティデザインをし、施設の設計デザインをしました。
――それって今の時代求められていますよね。造ったはいいけど、生かされていない施設はいっぱいあります。
中市 たとえば公共施設にカフェをつくっただけではたぶん集客は少ない。今だったら、仕事ができるスペースや自由に本が読めるスペースもつくるとか、こういう仕組みがあったら人が来るのでは、と考えて空間をデザインします。
――高山村のプロジェクトで大変だったことは?
中市 ちょうど新型コロナウイルスの感染が始まったときだったので、関わっている人たちとのコミュニケーションをとるのが大変でした。ほとんどオンラインでしたが、まずは近い関係になれるよう、小さいことでも一緒に話し合って対話を重ねました。
高山村の仕事が小川町との縁を深めさせた
中市 高山村の仕事に取り組むようになったころ、小川町にもちょくちょく来るようになりました。
そもそものきっかけは、民家の学校のイベントで、民家再生を実践している建築家に話をしていただいたことです。その方は小川町でいろんな建物の再生をしていたんです。事例を聞いているうちに、みんな小川町に行きたくなっちゃったんですね。それで小川町のまち歩きイベントを企画しました。
そのイベントをきっかけに、小川町で蔵を改修してカフェを営んでいるご夫婦と知り合いになりました。
ご主人は地域の活性化をテーマに、ブランディングやコピーライターのようなこともしている方だったんですね。高山村のお話をいただいたとき、私は初めてのコミュニティデザインの仕事だったので、「高山村の人たちと仲良くするにはどうしたらいいか」などご主人にいろいろ聞いてみたいと連絡を取ったんです。
ちょうどコロナの緊急事態宣言が一時解除になったときで、「今から小川町においでよ。話聞くよ」と言われました。当時は都内に住んでいたのでちょっと遠かったのですが、コロナ禍でずっと家にいたこともあり、気分転換も兼ねて行ってみようと思いました。
ゆったりした町の雰囲気が、すごくいいなと思いました。そしてその後も話を聞きに、ちょくちょく小川町にくるようになりました。
東京と小川町。2拠点生活が始まる
中市 ある日、蔵のカフェでおしゃべりしていたら、その中に、今度小川町に移住するという人がいて、「築120年の古民家を借りたけど、一人で住むには広いから、良かったら一緒に住まない?」と声をかけられました。
都内に部屋を持ちつつ、小川町にも家があったら来やすいかなと思って、週末は小川町で過ごすことにして2拠点生活が始まりました。
そのときはコロナ禍でリモートワークでした。だんだん週の5日間は小川町、2日間は東京となっていきました。
――週末だけのつもりが逆転しちゃったんですね。
中市 そうなんです。いつの間にか逆転してしまって(笑)。
半年くらいたつと小川町の中でも知り合いが多くなりました。週末だけオープンする農家さんのバーに、よく一人で行っていたんですけど、常連さんたちと仲良くなって、あるとき「なんで東京と2拠点生活しているの? こんなに小川にいるんだから、小川に引っ越せばいいのに」って言われたんです。
気づいたらみんなの中で、私は引っ越すことなっていて、日程から段取りまで決められていたんです(笑)。バーのマスターや常連さんたちがトラックを運転して手伝ってくれました。
――実際小川町は居心地がいいですか?
中市 そうですね。居心地がいいし、生活してるなっていう実感があります。
都内には4年弱住んでいたんですが、壁に囲まれたせまいワンルームで、押し込まれた感じがしていました。
でも小川町は普通の一軒家なので、窓を開けたり玄関を掃除したり、近所の方とあいさつしたり、近所のおばあちゃんに「あったかくなったわねえ」って声をかけられたり。
そういう会話は都内では一切ありませんでした。むしろ夜帰ってきて引き戸をガラガラって開ける音がうるさいとクレームを言われたくらいです。
――小川町に拠点を移してからどんな活動をしているんですか?
中市 「小川まちやど」3宿を運営する会社(株式会社わきま)を2022年6月に設立しました。
「まちやど」(一般社団法人日本まちやど協会)とは、まちを一つの宿と見立てて、まちの中に散らばっている魅力的なスポットや店舗と宿をつなぎ合わせ、訪れた人に、まちをまるごと楽しんでもらうという新しい宿泊の形です。全国各地で行われています。
小川まちやどの3宿はどれも泊まるだけの場所で、食事は飲食店でとるか地元の食材を調達して自分で調理して味わいます。温泉に入りに行ったり、お店で和紙や農産物などのおみやげを探したり、はしご酒を楽しむ、星空を眺める、早朝に川沿いを歩く、なんてことも宿泊するからこそできることです。宿泊者は、まちのあちこちで地元の方と触れ合ってほしいなと思っています。
――中市さんの事業の目的は何ですか?
中市 私の根本には林業があります。地域に魅力的な場所が増えれば人の流れができ、地域が活性化します。そうすればゆくゆくは山が守られるのではないかと思います。
そして、自分が育った小さいころのコミュニティを日本に戻したいと思っています。
2 あなたらしくあるために大切なこと
自分が本当にやりたいことなら力を発揮できるはず
――一人ひとりが自分らしくあるために何を大切にしたらよいでしょうか?
中市 私は自分らしくいるために、「やりたいことしかやらない」と決めています。
もちろん会社ではやりたくない仕事もしなくてはいけませんが、自分の活動としては、自分がやりたいことをやろうと思っているんですね。それが、自分が自分らしく力を発揮できることだと思うんです。
ものごとって一人ではできないので、いかに周りに応援してもらえるかがポイントだと思います。自分が一番熱量があって、一番楽しそうにやっていないと、人を巻き込めないと思っています。だから、自分がやりたい、楽しそう、ワクワクするということを大切にしています。
3 未来を生きる子どもたちへ
やれないことなんてない。逆風にどう立ち向かうかだけだ
――次の世代の子どもたちに生き抜く力を与えるメッセージをお願いします。
中市 生き抜く力になるかどうか分からないんですけど、私は常に「なんでもやろうと思えばやれる。やれないことなんてない」と思っているんですね。
世の中のせいとかコロナのせいとか言い訳をしないで、やりたいと思ったことをやるという姿勢を貫いてほしいなと思うんですね。
よく、未来がないとか、未来に絶望を感じている若者がいるとかいわれますけど、何をもってそう言うんだろうなと思っています。私たちも就職氷河期世代と言われていましたが、自分たちで未来を切り開いてきたような気がしています。逆風っていつの時代もあると思うんですけど、そこにどうやって立ち向かうかということだけではないかなと思います。
取材を終えて
小川まちやどを軸に、町の内外の人と連携
中市さんは今、小川まちやどを軸に、いろいろな人との連携にも取り組んでいます。
小川町を訪れる人たちに滞在を楽しんもらうために、飲食店など街なかの店を楽しめるような「宿泊チケットリターン」を考えたり、「北浦ストリートフェスティバル」などイベントの企画・運営もしています。
また、川越、寄居、秩父など町の外の人たちとの連携もはかっています。たとえば寄居町を観光したついでに小川町に泊まるとか、電車移動も含めた連携ができたらいいよね、と他地域のゲストハウスの人たちと話し合っているそうです。
建築が好きで人の暮らしを豊かにしたいという思いから、日本の林業問題へと視点が移り、その解決のために地域への人の流れをつくりだそうと取り組んでいる中市さん。
ふんわりした雰囲気と情熱をあわせ持つ中市さんが、日本の各地でどんな人の和をつむいでいくのか、楽しみでなりません。
取材日:2023年3月10日
綿貫和美