人との関わりを大事にすることが未来をひらく(車いすテニス選手 田中愛美)

高校時代、たくさんの友人に囲まれ、学校生活を心から楽しんでいたある日、けがで車いす生活となった田中愛美さん。そんな状況から東京2020パラリンピック競技大会という大舞台に立つまでにいたった彼女の“ありのままの姿”を知りたくて取材にうかがいました。(彩ニュース編集部)

Profile 田中愛美(たなか まなみ)
職業:車いすテニス選手
1996年生まれ。埼玉県所沢市在住。ブリヂストンスポーツアリーナ株式会社所属。勤務地ブリヂストンテニスハウス新所沢。
順位:ITF(国際)ランキング シングルス13位、ダブルス9位。JWTA(日本)ランキング シングルス1位、ダブルス1位。
戦績:2021 TOKYO2020パラリンピック シングルス ベスト16、ダブルス 5位。2020 Toyota Open International de L’ll de Re単複優勝。2020 Indian Wells Tennis Garden Championships単複優勝。2019 Open Paratennis du Loiretシングルス優勝。
ほか:日本車いすテニス協会強化指定選手、埼玉県パラドリームアスリート強化指定選手、ブリヂストンアスリートアンバサダー。

・高1の冬、突然のけがで車いす生活に
・周りのサポートに支えられて
・車いすでも一人で基本的なことができるようになろう
・少しずつ世界が見え始めた
・選択肢をせばめない
・周りの人たちを大切にすることが、自分を大切にする第一歩

1 今のこと

高1の冬、突然のけがで車いす生活に

――パラリンピック出場、お疲れさまでした。田中さんの人生の転機を考えると、けがをされ、車いすテニスに出合われたときが最初にあげられると思います。そのあたりのことをお話しいただけますか?

田中 高校1年生の2月、自宅の階段から転落して腰の骨を折り、それが背骨の近くを通っている神経を傷つけてしまい、下半身にまひが残って車いす生活になりました。

通っていた学校は中高一貫の女子校でした。高校1年生のころって、友達とは3年以上一緒で、大学受験にはまだちょっと間があるので、一番楽しい時期ですよね。でもそこでけがをしてしまって、学校にしばらく行けなくなりとてもショックでした。学校生活が大好きだったんです。

――自宅でけがをされ、ご家族はなおさら心配されたのではないですか?

田中 家族の中では母が一番ショックを受けていて、私の入院中も、あまり眠れなかったようです。病室に付き添ってくれていたのですが、少しでも私の姿が見えないと「どこかに行っちゃいそうな気がして寝られない」と言っていました。

――切ないですね。そんな中、車いすテニスに出合われたのですね。

田中 私は国立障害者リハビリテーションセンター(埼玉県所沢市)に4カ月間入院していました。そこには敷地内にテニスコートがあり、毎週末、車いすテニスをやっている人たちがいらっしゃいました。
入院中に見学させていただき、とても興味を持ちました。

――お母さまは、田中さんが車いすテニスに興味を持たれた様子を見て、「これだ!」と思われたでしょうね。

田中 そうだと思います。
退院してから、その方たちに混ぜていただいて本格的に車いすテニスを始めました。
テニス用の車いすを持っていなかったので、病院のものや、車いすテニスをやっている方の古いものをお借りしながら、ゼロから少しずつやっていきました。

――初めて車いすに乗ってテニスをしたときのことを覚えていらっしゃいますか?

田中 「思っていたのと違う」と思いました。車いす自体に慣れていなくて、まったく動けないんですよね。
自分が健常だったときは足と上半身を別々に動かせるのですが、車いすテニスは走るのも打つのもすべて手でやらないといけません。
ボールに追いつくこともできなくて、すごくもどかしく思いました。

周りのサポートに支えられて

――学校にはいつ戻られたのですか?

田中 高校2年の6月に復学しました。
そのとき私が強く希望したのは、中学のときから4年間ずっと一緒にいた子たちと留年せずに卒業したいということと、テニス部で一緒にやってきた子たちと引退まで活動したいということでした。

顧問の先生に「練習や試合でのサポートなど自分に手伝えることがあったら、それだけでもいいからテニス部に関わっていたい」と打ち明けました。
すると顧問は「プレーヤーとして戻っておいで。車いすでテニスができる環境を整えるから」と言ってくださったのです。
私は部活に戻るためにも、車いすテニスを「やるしかない」と思いました。

母は毎日、テニス用の車いすを車に載せ、運転していろいろな練習場所へ連れていってくれました。
私に「何かやっていてほしい」と望んでいたのだと思います。

――お母さまが、車いすテニスができるところを探して練習スケジュールを立ててくれていたということですか?

田中 そうです。病院のテニスコートだけでなく東京都障害者総合スポーツセンター(北区)でも練習しました。学校帰りに体育館で母と二人、ひたすら車いすで走る練習もしました。

車いすでも一人で基本的なことができるようになろう

――次に田中さんが大きく変化したのはいつですか?

田中 遠征に一人で行くようになったときだと思います。

最初の1年間は国内も海外も遠征は母と一緒でした。一回も行ったことのないホテルで、ちゃんと自分一人でできるのかすごく不安だったからです。

だんだん慣れてきて、ほかの選手とも親しくさせていただくようになってからは、「自分一人で遠征に行けるようになろう」と思いました。

海外で、自分一人で生活するために、知らない人に声をかけて、やってもらわなければならないこともあります。また、治安的に危ない場所もあるので、気を付けながら行動しなくてはなりません。

以前よりだいぶ「サバイバル力」があがったと思います。

高校卒業後、本格的に車いすテニスのツアーに参加。2016年に車いすテニス国別対抗戦のメンバーに選出され、以降毎年日本代表に

――それは田中さんにとってプラスですか?

田中 はい。サバイバル力と言いましたが、ある意味「自立」ですね。

けがをして車いす生活になった当初は、なんでも母に手伝ってもらっていました。
けがをしたのが高校生という、大人と子どものはざまのような時期に、母に頼りっきりになっていたのが、海外遠征を重ねていくうちに一気に自立していけたと思います。
練習も母に連れていってもらっていましたが、車の免許を取って、自分で車を運転して行くようにしました。
一人で基本的なことをできるよう変わろうとしたことは、私にとってかなり大きな変化だったと思います。
自分でいろいろなことができるようになって、いろいろな物事が見えるようになってきました。

――「自立」していく娘に、お母さまはどんな反応でしたか?

田中 母は当初いやがっていました。
車いすテニスをやっている方たちからは「20歳なんだから、自分で何でもできるだろう」と言われるのですが、「娘がけがしたのはつい最近だから、3年4年でそんなになんでもできるわけない」と心配していました。

――車いすテニス仲間の言葉は貴重だったようですね。

田中 そうですね。経験のある先輩方からお話を聞く機会は、ありがたいことにたくさんあったので、テニスに限らず、私生活やキャリアの選び方など、参考にさせていただいたことはいっぱいあります。

たとえば、高校卒業後の進路について、同じ車いすテニスで今トップの上地結衣選手にお話を聞かせていただきました。上地選手は高校3年生のとき、大学進学をせずにプロになることを決断されていました。

また、テニスをやるためにはお金が必要なので、どうやって協力してくださる企業を探したらいいのかという面でも、車いすテニスの先輩方にたくさんお話を聞かせていただきました。

少しずつ世界が見え始めた

――田中さんは自立を心がけ、競技生活一筋の道を選びましたよね。いわばワンステップあがる準備が整ったのだと思います。次に訪れた転機は?

田中 2016年ブリヂストンスポーツアリーナ株式会社に入社し、世界を目指して車いすテニスをする環境が整ったときだと思います。20歳のときです。

18歳のときからブリヂストンのテニススクール(ブリヂストンテニスハウス新所沢)で練習はさせていただいていました。きちんと技術をつけないと、トップになるのは難しいことは分かっていました。そのためには指導者が必要だったので、レッスンをお願いしました。
今の岩野耕作コーチにはそのときからずっとお世話になっています。
私が社員になり、会社として車いすテニスに力を入れてくださるようにしていただけたので、かなり早い段階からコーチとの練習時間も豊富にとれるようになりました。遠征にもコーチに帯同していただけるようになりました。

そのころから遠征でいい成績を残せるようになり、初めて日本車いすテニス協会の強化指定選手にも選んでもらえました。ちょっとずつ世界が見え始めた気がしましたね。

――今回のパラリンピックに出場され、感じたことを教えてください。

田中愛美さんと岩野コーチ

田中 大舞台に立ったとき、緊張して自分の実力を100%出せないかもしれない。でもその上で「どうすれば相手が格上の選手だろうが、ものおじせずに立ち向かえるか」を考えながら準備をしてきました。

そのおかげで初戦は緊張して少し硬くなったものの、「比較的ほかの大会よりちょっと緊張する」くらいの状態でいられました。
思ったより大きい舞台でやれるという手ごたえを感じた大会でした。

――今回の経験を経て、今、田中さんの目標は?

田中 パリのパラリンピックまであと3年です。次はメダルをもって帰りたいので、そこに向けて自分がしっかりとメダルをとっているビジョンを持った状態で臨めるように、3年間、ほかの大会もきっちりとこなしていけたらと考えています。
それから、今回のパラリンピックで、障がい者スポーツや障がい者自体に目を向けてくださる方が増えてうれしいです。
私にできることとして車いすテニスの魅力を伝え、広げていきたいと思っています。

2 あなたらしくあるために大切なこと

選択肢をせばめない

――一人一人が自分らしくあるために何を大切にしたら良いとお考えですか?

田中 障害があっても好きなことをするためには、「障がい者は普通こうだ」という概念を自分から取り払い、選択肢をせばめないようにすることが大切です。この世界に入って、私が一番感じたことです。

3 未来を生きる子どもたちへ

周りの人たちを大切にすることが、自分を大切にする第一歩

――気候変動や災害などが予想され、ときに自分がどういう状況になるか分からないという未来を見すえて、次の世代の子どもたちに生き抜く力を伝えるメッセージをお願いします。

田中 そんな難しいことを私が答えられるかなと思いますが、私が車いす生活になってから経験した中で言えることは、「人との関わりを大事にしたら必ず、自分の幸せな未来は見えてくる」ということです。

私が車いすになったときから今まで、あきらめずにパラリンピックに向けてモチベーションを持ち続けられたのも、それこそ車いすテニスをやるというモチベーション自体も、周りの人たちに起因したものだったのです。

うまくいかないときも、「周りの人がいてくれて今の自分がある」という思いでいれば、それが自分の活力になると思います。
周りの人たちを大切にすることが、自分を大切にすることの第一歩だと思います。

取材を終えて

 田中さんが母親とレッスンをお願いに行ったブリヂストンのテニススクールでは、当時車いすテニスのレッスンをしていませんでした。日本全体を見ても、そうしたテニススクールはほとんどなかったそうです。
 スクール支配人だった岩野コーチは、いろいろ調べたうえで受け入れを決断しました。岩野コーチは以前、ジュニア選手の育成に長く携わっていたため、経験や知識も豊富でした。
 田中さんに成長の可能性がどのくらいあるのか分からなかったので、最初はとにかく徹底的に厳しくレッスンしたそうです。「それに耐えられなかったら世界トップを目指すのはとうてい無理」だからです。
 でも顔色一つ変えない田中さんに、思いの強さを感じた岩野コーチ。会社としても前例のない中、田中さんの練習環境を整えていくことに努めます。
 田中さんは家族、友達、テニス部顧問、車いすテニス仲間、岩野コーチほか多くの人たちに力をもらって今があるのだと、取材を通して感じました。
 だからこそ「人との関わりを大事にしたら必ず、自分の幸せな未来は見えてくる」という田中さんの言葉は、今までの経験と実感がつまった、素直なメッセージだと思います。

取材日:2021年10月8日
綿貫和美