農業。一周まわって最先端(農家 萩原知美)

農業。一周まわって最先端(農家 萩原知美)

今、テレビを見ても農業がブームになっていると感じます。何がそんなに人を引き付けるのでしょうか? すでに40年も前から「都市と農村が交流する時代が来る」と考え、農村生活体験を受け入れてきた“農家のかあちゃん”こと、萩原知美さんにお話を伺いました。(彩ニュース編集部)

農業には素晴らしいものがあるのに反論できなかった…
人とのつながりから「農」の魅力を再発見
自分を生かせる場所で生かせることをしていく
かまどと井戸と米と味噌があれば命をつないでいける
萩原さんを導いた二人の女性

夕日を背に穏やかな表情の萩原さん

Profile 萩原知美(はぎわら さとみ)
農家。
結婚と同時に就農し50年。グリーンツーリズムという言葉に出会い、ヨーロッパを視察。1997年に「ファーム・インさぎ山」(埼玉県さいたま市見沼エリア)を立ち上げ、都市と農村をつないできた。
2002年「子供農業体験活動コンクール」農林水産大臣賞、2015年「食アメニティコンテスト」農林水産大臣賞、2022年第6回「食育活動表彰」農林水産大臣賞などを受賞。埼玉県ふるさとの味伝承士(2001年認定)。

夕日を背に穏やかな表情の萩原さん

Profile 萩原知美(はぎわら さとみ)
農家。
結婚と同時に就農し50年。グリーンツーリズムという言葉に出会い、ヨーロッパを視察。1997年に「ファーム・インさぎ山」(埼玉県さいたま市見沼エリア)を立ち上げ、都市と農村をつないできた。
2002年「子供農業体験活動コンクール」農林水産大臣賞、2015年「食アメニティコンテスト」農林水産大臣賞、2022年第6回「食育活動表彰」農林水産大臣賞などを受賞。埼玉県ふるさとの味伝承士(2001年認定)。

1 今の仕事のこと

農業には素晴らしいものがあるのに反論できなかった…

―― もともと農家のお生まれですか?

萩原 埼玉で生まれ育ちました。家は農家で、花や植木の栽培をしていました。農家は忙しく、両親はいつ寝ているのかもわからないくらいでした。

私は4人姉弟の一番上だったので、家事を手伝うのは当然でした。かまどで夕飯のご飯炊きを小学5年生からやっていました。ご飯とみそ汁があれば食事はなんとかなります。
かまどでご飯を炊くには薪(まき)が必要で、子どもながら大かごを背負って枝を拾ってきます。自分ができることは、どうにかやりくりして必ずやる。それが当たり前でした。

――将来は何になりたかったのですか?

萩原 学校の先生になりたくて、高校を卒業したら大学に行きたかったのですが、父が大病して、進学どころではなくなってしまいました。母を助けなきゃと大学進学をあきらめ、一般企業に就職しました。
幸い父は回復しました。
そのうちにお見合いをして24歳のとき、さいたま市に嫁に来ました。それまで農業をやったことがなかったので、夫と、夫の両親に教わりました。

企業で働いていたころ、花嫁修業のために料理学校へ行ったら楽しくて、専門的にやりたくなりました。調理師学校に入ろうと考えていたのですが、ちょうどそのころ結婚が決まって、調理師学校をあきらめたんです。

――昭和の中ごろはそういう時代でしたよね、自分のことより家のことを優先させる。萩原さんは先生をあきらめ、今度は調理師学校をあきらめたんですね。

萩原 今でも忘れられないのは、初めての高校の同窓会に行ったときに、「なんで農家にお嫁に行ったの?」と、冷ややかな目で見られたことです。私のクラスでは、ほかに農家に嫁いだ人はいなかったんです。そのとき私に反論するだけの力がなかった。

――それも悔しいですね。

萩原 悔しいでしょ。だからその悔しさがいつも頭の隅にあったんです。農業には素晴らしいものがあるのだから、その根拠を堂々と言えるようになって偏見を跳ね返したい。だから大学だけはどうしても行きたい。だけど行かせてくれとは言えない。
そんなとき通信教育という方法があるのを知り、東京農業大学通信教育課程の園芸課で学びました。

――いつのことですか?

萩原 29歳のときです。子どもが2人いて、下のが1歳、上のが3歳。子どもたちを寝かしつけてから勉強していました。雨の日は図書館へ行きました。

――雨の日は図書館? 雨の日は外での農作業ができないからということですか?

萩原 そうです。それに図書館へ行けば、いろんな調べ物もできるじゃないですか。教科書だけではレポートを書くのに足りなかったんです。

――すごい熱意ですね。

萩原 農業の知識を身につけるだけでなく、広い視野を持ちたかったんです。

東京農業大学の通信教育を受けていた萩原さん。成績優秀と認められ、修了時には文部大臣賞を受賞

萩原 4年間通信教育で学び、レポートには「農業を継ぐ人が減っている。これからの時代は、農家と都市住民が交流する時代が来るのではないか」ということを書きました。都市住民にとっては新鮮なものを食べられるし、リフレッシュできる場にもなるだろうと。
通信教育でのレポートなどが認められ、修了時には文部省の文部大臣賞をいただきました。

――農家と都市の人が交流する。まさに今、やっていらっしゃることですね。

萩原 具体的な形にはなっていませんでしたが、そのころから漠然と構想があったのかもしれません。今から40年前のことですね。

そのうち下の子が小学校にあがり、社会科と理科が一緒になった「生活科」が新しくできたんですよ。そのお手伝いで、サツマイモの植え付けから収穫までと、農家の生活体験や昔遊びを子どもたちに教えたとき、楽しそうに目がキラキラと輝いていたんです。

葉の花の季節。かあちゃん塾ファーム・インさぎ山で種まきの仕方を説明する萩原さん
かあちゃん塾ファーム・インさぎ山で種まきの仕方を説明する萩原さん(中央)

萩原 そのとき私は40代。周りはみんな20代30代のお母さんたちでした。子どもたちに教えながら気づいたのは、そのお母さんたちに、農のある生活の豊かさが伝わっていないということでした。
農家には、人間が生きるのに必要な知恵や知識が受け継がれているということを分かってほしいと思いました。

――小学校での体験も、農村と都市の人を結び付けることにつながっていったのですね。

萩原 そうです。それから「どうしたら、ご先祖が残してくれたこの場所を残せるんだろう」とも、常々考えていました。
というのは、この辺りは「野田のさぎ山」といって、江戸時代から250年間サギの集団営巣地でした。5軒の農家の屋敷林にサギが巣をつくるのですが、巣の数は多いときには6000にもなり、その状態を「さぎ山」と呼んだのです。

サギがここに巣をつくるようになったのは、徳川8代将軍吉宗が見沼の干拓事業をして水田地帯となったことが理由の一つとされています。以来、紀伊徳川家より御囲鷺(おかこいさぎ)として保護され、昭和27年には特別天然記念物に指定されました。しかし昭和30年代から水田の減少などによりサギがだんだん来なくなってしまいました。

私は、豊かな自然が残されたこの場所を生かして、何かできないかとずっと考えていたんです。
そんなとき、「グリーンツーリズム」という言葉に出合いました。

――グリーンツーリズムとはなんですか?

萩原 農山漁村で休暇を過ごしながら、豊かな自然やその土地の文化、人との交流を楽しむという、ヨーロッパに広く普及している余暇の過ごし方です。
グリーンツーリズムが、多くの人たちに農業の良さを知ってもらうきっかけになるかもしれないという直感がありました。

そして1996年48歳のとき、通信教育で「グリーンツーリズム専門家養成講座」を受けたんです。農山漁村女性・生活活動支援協会が農水省の補助事業で始めたものでした。
「子どもたちに、田舎暮らしの体験を通して、人にとって本当に大切なことを伝えよう」。そんな構想がかたまっていきました。

現地を見てこようと思ってヨーロッパ視察にも参加しました。フランスではパリの都市部を、周りのイルドフランスという100㎞圏内の穀倉地帯が支えていました。都市の人たちがイルドフランスで休暇を過ごし、お金を落とすことで農業が成り立っている。お互いに助けられ、相乗効果を生んでいたんです。
日本なら中間山村、山岳地帯の人が民宿やレストランをやったりして、都市部の人が休日に訪れる。そういう形態もあるのだと気づきました。

――経済も含めた循環ですね。

萩原 視察の中で、グリーンツーリズムの第一人者といわれるアンリ・グロロー氏から直接、「あなたは首都圏30㎞圏内に住んでいるのだから、消費者がそばにいる。消費者に向けて発信しなさい。そして、地方にこういうところがありますよ、と紹介もできる。地方の情報発信基地にもなってください」と言われました。私はこの言葉を今でも忘れたことはありません。

――感銘を受けて帰国されたのですね。

萩原 はい。翌年、「今こそ、農村生活体験が必要だ。自分がやってきたことをありのままに伝えていこう」と決心しました。月1回自宅を開放して「今だからこそ農村生活体験をしてみませんか」と親子を対象に呼びかけ、田舎暮らし体験「かあちゃん塾 ファーム・インさぎ山」を始めました。初年は24組の家族が参加してくれました。

参加する子どもたちの笑顔を支えに、食の安全や農の豊かさを実感でき、自然をいつくしみ環境を守ることの大切さを伝える場づくりに、ボランティアスタッフと全力で取り組みました。年々参加者も増え、マスコミなどにも取り上げられました。

春植えたジャガイモを夏に収穫する子どもたち。土の中からゴロゴロ出てくるジャガイモに夢中
春植えたジャガイモを夏に収穫。土の中からゴロゴロ出てくるジャガイモに子どもたちは夢中

人とのつながりから「農」の魅力を再発見

――農村生活体験ではどんなことをするのですか?

萩原 野菜作りや味噌(みそ)づくり、伝統行事や昔遊びなどをします。
餅つき体験では、「餅をつくにはもち米を蒸さないといけないから、薪をどんどん燃やさないといけません。小さい子たち、木を拾ってきてください」と呼びかけると、みんな喜んで拾ってきます。
電気やガスがなくても、薪を燃やせば、かまどでご飯を炊いたり煮炊きしたりできるということ子どもたちに教えたいんです。

12月になると翌年のために、落ち葉を集めて生ごみなどを混ぜ合わせ、有機肥料も作ります。有機肥料を使うのは、無農薬栽培で安全な野菜を作るためということもありますが、自然の中には無駄なものなんて一切ないということも学んでほしいのです。それに、ごみを減らすことにもつながります。

雑木林の中、落ち葉をかき集める子どもたち
雑木林の中、落ち葉を集める子どもたち

――そうして25年間続けてこられたのですね。

萩原 不思議なことに、信念をもって突き進めばだれかが応援してくれるという体験を何回もしてきました。家族、近所の方々、スタッフ、いろんな方たち。困っていると必ずと言っていいほどだれかが手を差し伸べてくれるんです。本当にみなさんに助けられてきました。お天道様(おてんとうさま)も味方してくれました。すべてに感謝です。

自分たちのやってきた25年間の活動を通して、学校、埼玉県警、大学、保育園、企業などいろんな方々と出会い、改めて「農」の魅力を再発見することができました。
動物や植物などの触れ合いを通して命の尊さを、農作物の栽培から自然のしくみを学ぶだけでなく、農のある暮らしには、さまざまな社会問題を包み込むだけの力があることに気づかされたんです。それは「食の安全・食育」「教育」「福祉」「環境」「いやし」「居場所づくり」「予防医学」「雇用」「観光」と、多岐にわたります。

―――現在もかあちゃん塾は続いているのですか?

萩原 今は、1家族に1区画の畑を貸し出すというかあちゃん塾の形態から、畑を“シェア”してみんなで作って収穫するという形態に進化しています。毎月1回開く「食育コース」、年6回の「田んぼの学習コース」では、いろんなことを伝えています。
食育コースは野菜の種をまいて、収穫して、調理して、食べるところまでを年間を通して体験します。田んぼの学習コースは実験と農業体験を通して、田んぼと環境問題の結びつきを考えたり、日本人の主食のお米についてたっぷり学習します。

コロナ禍でオンライン配信も始めました。たとえば味噌作りは材料を各家庭に送っておいて、ライブ配信しながら一緒につくります。

また、いろんな方が持つ技を次の世代に伝える橋渡しの役目も大切にしています。
たとえば1月末には味噌づくりと恵方巻きづくりを行い、元すし職人が恵方巻きを教えました。
かまどづくり、炭焼き、柿渋づくりの職人は亡くなってしまわれたのですが、次男がそうした技を受け継いでいるので橋渡しできます。

郷土料理は私が担当します。ずっと伝わってきた伝統行事や伝統料理、かまどでのご飯炊きなど昔ながらの食事作りを次の世代へつなぐため、今、ビデオに撮っています。それがあれば、どういう時代が来ても子どもたちは生きていけると思うからです。

かまどがあって井戸があって米と野菜を作ることができれば、どんな時代が来ても命をつなぐことができます。そういうことを先輩たちから受け継いで、次の代へ継承していきたいですね。

秋には、天日干ししたお米を、実際にかまどで炊き上げます
秋、天日干ししたお米を、かまどで炊き上げます

2 あなたらしくあるために大切なこと

自分を生かせる場所で生かせることをしていく

―――一人ひとりが自分らしくあるために何を重視したら良いでしょうか?

萩原 先人たちは、自分の住む地を耕し、気候風土に合った作物を探し、そこで暮らしてきました。大きな自然災害が起こるたびに痛感するのは、先人たちが何もないところからつくりだす知恵や技を発揮し、立ち上がってきたことのすごさです。

みなさんそれぞれなにかしらが能力を持っているわけですから、自分の持っている能力を生かして、自分の生かせる場所で生かせることをする。そして経験したことを伝えていく。それでいいと思います。それ以上のことは高望みになっちゃう。それがだれかのためになればいいですよね。今でいう「共助」かな。ともに助けてともに生きていく、ということだと思います。

埼玉大学経済学部の寄附講義授業から生まれた紙芝居『見沼の肝っ玉母ちゃん』
埼玉大学経済学部の寄附講義授業から生まれた紙芝居『見沼の肝っ玉母ちゃん』。萩原さんの「土を守って土ともに生きる暮らし」への深い思いや、農のある暮らしが貼り絵で表現されています

3 未来を生きる子どもたちへ

かまどと井戸と米と味噌があれば命をつないでいける

――次の世代の子どもたちに生き抜く力を与えるメッセージをお願いします。

大朝 繰り返しになりますが、かまどと井戸があれば、なんとでもなります。そのほかに野菜や米を作ることができれば生きていられるわけですよ。地震があってもコロナがあっても何があっても困りません。
何もなくても農家は生きていける。だから今、「農のある暮らし」を伝えていきたいのです。

取材を終えて
萩原さんを導いた二人の女性

萩原さんの義母の最期の言葉が「もうそろそろだから、お母さん(※編集注 萩原さんのこと)を呼んできて」だったそうです。「私が急いで母屋へ駆けつけると、義母は静かに亡くなっていました」。
一瞬、話の内容が理解できませんでした。「もうそろそろ命がこと切れるから、来てくれということだったのですか⁉」。私は本当に驚きました。
「人間ってそういう力があるんですか?自然と共に生きていると分かるのでしょうか?」と畳みかけて聞くと、「それが農家なの」と萩原さん。
「義母は亡くなる直前でも『来年のインゲンの種を選別しておいてね』と頼むと、ちゃんと選り分けておいてくれました。農業には死ぬまで働ける場所がある、ということを義母が教えてくれました。自分がやれることをやって、周りを助けることもできる、と」。
亡くなったとき、97歳8カ月だったそうです。

そして萩原さんにはもう一人、心に残る女性がいます。
それは、99歳3カ月で亡くなった萩原さんの叔母。夫が戦争でシベリアに抑留されてしまい、若いうちから一人で農業を続け、自分で考え実行する、しっかりした方だったそうです。
「それにね、年を重ねてからも、いつも髪をカールしてきれいにしているのよ。朝みんなが起きる前に起きて、草むしりをすませて、昼間は何もしないようにしているのよ」。
朝早く草むしりをして、そのあときれいに身支度を整えて一日を過ごす。生き方に一本筋が通っていてかっこいい、と思いました。

「97歳8カ月、99歳3カ月。その二人の女性が私の道しるべになりました。二人が、できることをやればいい、自信をもって農業をやっていけばいい、と進むべき道を照らしてくれたんです」

萩原さんが伝える「農のある暮らし」には、人が生きるのに必要な技や知恵が受け継がれています。その技や知恵、自然とのふれあいは今、人々が求めているものです。大規模な自然災害や食糧不足、都会でのストレス、食の安全などが話題に上がる今、「農のある暮らし」を時代が求めるのは、ごく自然な流れなのだと思います。

取材日:2023年1月12日
綿貫和美